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TWO LANE BLACK TOP ロードムービーの世界に憧れ続け、ウッドストックから サンフランシスコまで、Z1でのアメリカ大陸横断の旅。 →http://www.hyd.co.jp/ONTHEROAD/ |
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![]() 2000年になりました。 でも今から20年前のこの頃が、 カワサキにとって一番輝いていたような 気がします。 このページでは、カワサキに関する、 エピソードなどをランダムに書いています。 ネット版KCBMの掲示板です。 エディ・ローソンへの想いをぜひ。 ZIIの話〜1、GPZからZGP オートバイの魅力、旅に出よう 横浜M.C.ケンタウロス バリバリ伝説2(特別編) カワサキコーヒーブレイクミーティング ZEPHYR バイク便〜ZIIの話2 Steady Eddie(特別編) 彼のオートバイ、彼女の島・そして‥ その後の、横浜M.C.ケンタウロス トップページのイエローボールについて(特別編) 大型初心者さんのZへの思い(特別編) やっぱりエンゲージリングが欲しい(特別編) 19のままさ〜奥松島カワサキ物語 矢沢永吉激論集『成りあがり』 新しいトップページによせて@ぶちさんのZ2
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![]() ![]() カワサキのスーパーバイクの伝説を生んだ、無名の英雄。 おそらくカワサキの大型空冷4発にこだわりのあるカワサキ乗りならば、Eddie Lawsonのことは特別な思いがあるだろう。自分もそうだ。今でこそ、「Steady Eddie」とまで言われ、その優等生ぶりの走りはトップレベルのテクニックに裏づけられたものと、誰もが疑いの目はもたないだろうが、意外なことに、この天才ライダーは、カワサキのレーサとしても「新人だから、まず期待しなくても‥。」ぐらいにしか扱われずに軽く思われていた。 70年代初頭から、カリフォルニアのあちこちで毎週のように市販車を少し改造しただけの、いわゆるプロダクションレースが頻繁に行われていた。そこに目をつけたAMAはスーパーバイクレースの原典ともいえる、AMA公認のプロダクションレースが1973年にラグネセカで産声をあげた。 レギュレーションはシンプル。「市販車をベースに、姿はストックのまま(そのままの姿を残す)、メータやライトは外してはいけない。チューニングは市販されているアフターマーケットをつかうこと。」基本的にはこんな感じだ。いわゆる、「市販車」でなければいけないのだ。そして、そのレースは瞬く間に支持をうけ、その後1976年にはAMAのシリーズ戦までに昇格した。その名も有名な「スーパーバイク・プロダクション」である。翌1977年にはAMAのチャンピオンシリーズになり、名実共にバイクメーカの実力発揮の場所となった。 初めの頃は、カワサキZ1の高性能なエンジンパワーのおかげで上位はカワサキが独占していたが、しだいにフレームから車体バランスの優れたマシンが上位を占めていくという、GP顔負けのシビアな内容になっていった。70年代後半、意外にも上位を占めていたのはそんなマシン、2気筒のBMWやモトグッチであった。 その後、レギュレーションは何度も改定され、1980年ついに排気量は1,025CCまでOKとなった。いよいよ、カワサキの主役の登場である。そして、もう一つ大切なことは、この並外れたパワーを操れる、「クレイジー」なライダーだった。 カワサキもスーパーバイク専門のワークスを作り、シーズン制覇の体制づくりを始めていた。 そして、肝心のライダーの候補として挙がったのは、エディ・ローソンではなく、フレディ・スペンサーだった。しかし、御存じの通り、すでにスペンサーはホンダと契約、そこでカワサキは体制の変更を決めた。 ベテラン一人、新人一人。 ベテランはGP500ですでに活躍していた熟年のマイク・ボールドウィン。そして、新人の方は、ロードの経験がほとんど無し、しかしダートでは新人賞をとり、250CCのプロクラスでも上位に食い込んではいたが、ほぼ無名に近い22歳の若造、そう、彼こそがエディ・ローソンだった。 スーパーバイクの経験は全く無し、細みの体はとてもスーパーパワーのマシンを扱えるとはカワサキのワークスは思ってもいなかったが、「熟年のマイクがいるから、まずは賭けてみよう。」と軽くOKをした。 ![]() しかし、シーズン直前のテストでなんとエースライダーのマイクがケガ。出場不可能となってしまった。 しかたがなく、カワサキのワークスは新人のエディをエースとして今年は参戦しなければならなくなった。 こんな時はマシンの開発も良くはなく、ライバルのホンダはニューマシン、名ばかりのCB750F(排気量からいってCB900Fなのだが、中身は耐久レーサーのRS1000だったという。)で挑戦。そして、カワサキの過去の栄光をささえたヨシムラは今やスズキとタイアップ。GS1000でウエス・クーリーというまた強力なマシンで挑戦してきた。カワサキはさい先不安という悪いスタートで始まった‥。 しかし1980年、奇跡はおこった。御存じの通り、この年を沸せたスーパーバイクレーサはスペンサーであり、クーリーであり、そして無名の新人エディ・ローソンだった。 全11戦のうち、10戦を終わった時点でスペンサーが4勝、エディ3勝、クーリーが2勝というまさに3人で世紀のバトルは行われていた。そして、シリーズ最終戦、悲劇のデイトナを舞台に幻のチャンピオンが泣いた。 決勝直前、エディのマシンはトラブル。急遽、スペアのマシンにゼッケンをつけて出走、そして、エディーは新人ながらシリーズチャンピオンという快挙を成し遂げた!しかし、このスペアマシンでの出走にクレームが起きた。新人だからか、そのクレームは特別に思われ、小さなレギュレーション違反は当たり前にレースが行われていたこの時代、エディーにだけ避難の矢は浴びせられ、結局最終戦、失格。チャンピオンはクーリーとなった。 その後の伝説は御存じの通り、1981年には文句無しにエディがシリーズ優勝。( この時に活躍したマシンがあのZ1000SIです。)伝説のマシン「Z1000Rエディ・ローソンレプリカ」の発売、翌年1982年も火事によるマシンを失うことや、大きな怪我というアクシデントに遭遇しながらも、エディがまたもやシリーズ優勝。 翌年1983年、ギュレーションは改定され、最大排気量を750CCへと改められた。 モンスターマシンはバトルを繰り返したスーパーバイクの歴史はここに終わった。 「Steady Eddie」と呼ばれるゆえんはここにある。 どうしてもチャンピオンを取りに行く、リスクを犯さない優等生ぶりの走り、観客はいつしか彼をこう呼んだ、「Steady Eddie」。 しかし、1982年の開幕戦、あのデイトナの悲劇をおそれず、シリーズ優勝を何としてもつかみたいエディーは、100マイルを無給油で走るという作戦をたて、最終ラップ目前まで2位という素晴らしい走りを見せた。しかし、あと半周でガス欠。無茶をしない、こじんまりの走りと思われていたエディーだが、ここまでしてもポイントを取りにいくという執念に、当時の観客は尊敬と、賞賛したにちがいにない。 だからこそ、カワサキライダーは彼のことは今でも特別に思っている。 自分も彼のことは尊敬する。 *先日、このページを見てくれたアメリカのエディの大ファンRichardさんという方からメールを頂きまして、本当に光栄でした。でも、英語わかりません(笑)それでも、彼のサイトリンクしておきます。 →http://www.sentex.net/~abiggs/kawasaki/ *参考文献カワサキバイクマガジンVol.4 (2000/2/12) その9 |
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